酷暑の日々が続いているので雨が降るのは嬉しいが、此処数日間のように、線状降水帯の発生するような大雨は困りものだ。
水害に遭遇された方々には心よりお見舞い申し上げます。今年は梅雨の明ける時期が早かったので、全国各地で毎年発生する水害は避けられるのかなと思っていたが、とんでも無い誤解だった。地球温暖化の影響で、日本列島に及ぼす風水害は年々膨大化の一途だ。今後は台風シーズンが到来する。10月後半までは大災害を覚悟しておかねばならない日が続く。今日は「山の日」だったが、大雨の予報だったので、登山は諦めていたが、福岡市内の早朝時は、ぱらつく程度の降雨で、夕方17時頃には雨雲も通過して行く予報だったので、4時半過ぎにスタートして雨の降り方が激しくなった6時半までの「ドラキュラウォーキング」を楽しみ、その後は、天気予報と相談して、夕方雨が上がるようであれば、志賀島まで走り、福岡県最低峰の「小岳」登山と干潮時間(16時)を狙って「沖島」ウォーキングを楽しむ予定だった。
雨が小止みの間の2時間程度の時間だったが、「須玖岡本遺跡」周辺から南福岡駅周辺の6キロ程度を歩いた。
〇熊野神社の銅矛鎔笵(銅矛の鋳型)国の重要文化財・・・この銅矛の鋳型は、江戸時代に近くの畑で発見されたもので、熊野神社の宝物として大切にされてきました。完全な形で残された鋳型は珍しく、また、広形銅矛の製作技法を知る手がかりとして大変貴重なもので、国の重要文化財に指定されています。須玖岡本遺跡の周辺ではこのほかにも多くの青銅器の鋳型が発見されています。ここ熊野神社の境内から見下ろす北側の一帯が須玖岡本遺跡です。
〇奴国王墓跡と発掘された埋葬品の複製・・・奴国は、大陸に向かう天然の良港・博多湾という地の利により、いち早く中国や韓半島からの進んだ文化を取り入れて発展した先進地域でした。春日市域では弥生時代中期から集落が急増し、奴国の中心地として成長していったことが、遺跡の発掘調査で裏付けられています。とりわけ
、1899(明治32)年、須玖岡本遺跡で巨石の下に発見された甕棺墓は、前漢鏡30面前後のほか多数の宝物が副葬されており、これを奴国王墓とすることが今では考古学上の定説となっています。その後も勢いを増した奴国の王は、
西暦57年、中国の皇帝(漢の光武帝)に使いを送りました。これを喜んだ光武帝は「漢委奴国王」の金印を与え、正式に奴国の王を認めたと、古代中国の歴史書『後漢書』東夷伝は記しています。奴国は日本列島の国の中で初めて世界の歴史に名を刻んだ国なのです。さらに時代が下った弥生時代の終わりごろ(約1,800年前)、日本列島で最も勢力を誇っていたのは、女王卑弥呼が治める邪馬台国でした。しかしなお、倭国はまだ大小30余りの国に分かれて相争っており、その中にあって、この頃の奴国は2万戸を超える人々が住む有数の国だったことが『魏志』倭人伝には記されています。また、奴国の王都ともいえる須玖岡本遺跡周辺部では、弥生時代中期から引き続いて盛んに青銅器やガラス製品、鉄器などを生産していたことが、近年の発掘調査によって分かってきました。わが国最大規模を誇る青銅器工房で、大量に生産された銅矛などは、西日本各地から朝鮮半島南部にまでもたらされており、奴国の影響力がいかに大きかったかを物語っています。その後、
大和朝廷が全国を治めるようになると、奴国の独自性も徐々に失われていきます。奴国の領域は儺県と呼ばれるようになりますが、今も「那の津」「那の川」などの地名にその名残をとどめています。
下記写真の、4トンの重さの王墓上石は、明治32年に発見された甕棺墓(王墓)の上石で、平成10年、現在地に移設されたもの〇1899(明治32)年に岡本で発見された奴国王墓の甕棺には、30面前後の前漢鏡が副葬されていました。このうち注目されるのは、直径23センチメートルほどに復元される草葉文鏡です。直径20センチメートルを超える草葉文鏡は、中国でも王侯クラスの墓からしか出土していないことから、奴国王は、東アジアの中でも特に漢の厚遇を受けていたと考えられています。

今年の3月30日の干潮時に「沖島」に渡った際は、島への道が完全に干上がっていたが、今日明日の夕方(16時~17時)は30センチ程度の干潮予想だ。長靴なら大丈夫だろから、明日の天気次第では久しぶりに志賀島迄走ってみよう。
〇次回のチャンスは、8月23日(15時半)、24日(16時)、25日(17時)が20cm程度の干潮となる。この日の天気に期待しよう!!。
