今年最初のフェリーツアーで奈良県と京都府の県境にある「柳生の里」と周辺の鎌倉時代の石仏巡りを楽しんで来た。
泉大津港~御本陣山~岩船寺~石仏巡り~浄瑠璃寺~奈良なごみ館(昼食)。歩行距離4.0km。四日目。2575日。一峰(御本陣山)。
雪景色の岩船寺。到着時には雪が多量に降っていて、とても綺麗な寺院の雪景色を鑑賞することが出来てラッキーだった。
〇岩船寺・・・加茂町南部、南当尾一帯は古く「小田原」とよばれ、仏教文化が花開いたところでした。その中でも、当寺は平安時代を代表する寺院です。行基開基を伝え、行基が鳴川に建立した阿弥陀堂がそのはじまりとされ、弘安2年に至って鳴川山寺の東禅院潅頂堂を岩船に移し、同8年に供養したといわれていますが定かではありません(『岩船寺縁起』)。本尊は阿弥陀如来像で10世紀を代表する仏像として知られています。三重塔(室町時代)は中世後期の代表作ともいわれており、重要文化財に指定されています。

〇岩船寺は、京都府木津川市の静かな山の中にあります。四方を山の樹林に囲まれ、
境内では、春、夏には梅、椿、桜、睡蓮そして特にアジサイの花々が咲き誇ります。そのため「花の寺」として親しまれています。そこかしこに咲くアジサイは30種類以上5000株ほどあり、アジサイの名所として有名で、山門の扁額にもアジサイの花が彫られています。
重要文化財である三重塔は、木立の丘の麓に位置するため、珍しいことに、塔を間近かつ上から眺めることができます。岩船寺の本尊は、3m近い木像の阿弥陀如来で、もっとも古いものであると考えられています。
〇阿弥陀如来坐像・・・阿弥陀如来坐像(重要文化財)。重量感に満ちた3m近いいわゆる「丈六」の坐像。両手は定印(じょういん)を結び結跏趺坐(けっかふざ)し、肉身には漆箔を施し、衣には朱の彩色が残っている。 胎内に「□□九年丙午九月二日丑丁」の墨書銘文を持ち、元号が判別できないが九年が干支の丙午に当たる年は村上天皇の天慶九年(946年)しかなく、貞観時代(じょうがんじだい)から藤原時代初期の制作と見られる10世紀中期を代表する貴重な尊像である。
〇普賢菩薩騎象像(平安時代・重要文化財)・・・
辰年・巳年生まれの守護仏。現在は本堂内本尊脇に安置されているが、元来は三重塔内部に納められていた。寺伝によると智泉大徳作と伝わるが、智泉は画技にすぐれており、伯父である弘法大師(=空海)の指導で騎象像を書写し、この図像をもとに藤原時代初期の仏師によって制作されたと考えられる。一木造りの彩色像で女性的な姿の当時代を代表する優品である。この像は、法華経に説かれる六本の牙を持つ白象に乗る普賢菩薩で、法華経を信じる者を護持(ごじ)するといわれる。
〇十一面観音菩薩像・・・あらゆる方向を常に見て、人々を悩みや苦しみから救い、願いをかなえる菩薩。鎌倉時代作の尊像は左手に花瓶を持ち、女性的な美しい像である。

雪道を石仏巡りに向かう。まさか奈良で雪景色を楽しめるとは思ってもみなかった。案内所の方によると今季初雪だそうだ。
〇当尾地区には、多くの石仏や石塔があることで知られています。特に平安時代から修行僧の庵室や行場が設けられていた小田原には、浄瑠璃寺・岩船寺の界隈に、鎌倉時代後期から室町時代にかけて、行き交う人々のために多くの磨崖仏が造立されました。これらは、道を行き交う人々を優しく見つめてくれる道しるべとしての石仏達です。南都の近郊という立地からでしょうか、繊細で芸術性の高い石仏が多く点在し、石仏の里として訪れる人がたえません。
〇仏谷の阿弥陀(?)摩崖仏・・・京都方面の北側から小田原に入ってくる谷間の巨石に彫りこまれた如来型の摩崖仏。この谷を仏谷と呼び、小田原への入り口に当たるところです。磨崖仏を過ぎると、大門の集落を抜けて藪中三尊の前に出ます。この石仏は数百年の歳月を経た今日もなお、訪れる人々の心をなごませてくれます。
〇藪中三尊・・・東西小田原の境目に当たるところ。浄瑠璃寺の門前から少し東へ行くと、東小の集落にさしかかったところの巨石に、阿弥陀・観音・地蔵の三尊が刻まれ、弘長2年(1263)の制作年があります。仏谷から上ってくるとちょうどこの磨崖仏のところに出ます。当尾ではもっとも古い年号のある磨崖仏です。〇カラスの壺・・・道の分岐点にある巨石の二面に、阿弥陀像と地蔵像が刻まれた珍しい摩崖仏です。康永2年(1342)の銘文が刻まれています。同じ分岐点の道端にある礎石は、近くの東小田原随願寺のものと伝えられています。これが唐臼に似ているところからカラスの壺と呼ばれるようになりました。
〇ワライ仏・・・阿弥陀三尊摩崖仏は俗にワライ仏と呼ばれ、もっとも親しまれている石仏です。永仁7年(1299)の銘文があり、「岩船寺」の寺号も始めて登場します。磨崖仏の上に岩が庇のようにせり出しているため、雨による侵食が少なかったようです。この磨崖仏の近くにもかつて岩船寺に向かう古い道があったといいます。
〇ミロクの辻磨崖仏・・・奈良から笠置寺へ向かう道筋と岩船寺への辻に位置している線刻の弥勒磨崖仏は、笠置寺の線刻弥勒磨崖仏を模刻したものと云われ、室生の大野寺の弥勒磨崖仏とも規模は異なりますが同じ信仰に基づいています。文永11年(1274)に大工末行が刻んだことが記されています。
〇浄瑠璃寺・・・寺の縁起には、奈良時代に聖武天皇が僧行基に命じて建立させたのがはじまりと伝えているのですが、浄瑠璃寺の記録「浄瑠璃寺流記事」(重要文化財)の記すところは、永承二年(1047)に、当麻出身の僧義明が薬師如来を安置して開基したことを伝えています。浄瑠璃寺の名は、東方浄瑠璃浄土の主、薬師瑠璃光如来に因んだものです。その後、平安時代末期になって九体阿弥陀仏を安置する阿弥陀堂を建立し、庭園を整備して今日の姿になりました。
〇浄瑠璃寺庭園・・・浄瑠璃寺の庭園は、極楽浄土を表現しています。梵字の阿字をかたどったと云われる宝池を中心に配し、西に本堂・九体阿弥陀仏を安置し、東に三重塔・薬師如来像を祀るという当初のままの形を残している浄土庭園は少なく、周囲の自然環境と共に四季折々の美しさを見せるところから国の特別名勝に指定されています。
〇三重塔(国宝)・・・鎌倉時代が目前にせまっていた頃、新たに阿字池を造り浄土庭園が整備されました。ここに戦火に見舞われた京都から、三重塔(国宝)が移築されて、庭園の東に配され、東の薬師、西の阿弥陀という浄土庭園の形が完成しました。塔の初層内陣には、創建時の本尊といわれる木造薬師如来坐像(重文)が安置され、内陣の壁面には真言八祖・十六羅漢を描いた壁画が残され、天井や柱にも極彩色が施されていた様子がわかります。
〇九体阿弥陀仏と本堂(阿弥陀堂)(国宝)・・・平安時代末期の世情不安の中、極楽浄土を夢見る浄土信仰がたかまりをみせると、浄瑠璃寺の境内に横長の阿弥陀堂(国宝)が建立され、九体阿弥陀如来像(国宝)が安置されました。お堂の扉は、各阿弥陀像に対応するように配置され、後世檜皮葺きの屋根を瓦葺きに変更した時点で中央に向拝が設置されたようです。
平安時代には、京都を中心にして30か所ほど九体阿弥陀堂が造られたと云われますが、現存しているのは浄瑠璃寺だけです。阿弥陀像は、中央に坐像の中尊を配置し、両脇に四躯ずつ等身大の阿弥陀像を配置しています。
〇四天王立像 四躯(国宝)・・・平安時代に制作された四天王像としては屈指の名作といわれています。本来は堂内の四隅を護る役割をもって安置されていましたが、現在は広目天像が東京国立博物館へ、多聞天像が京都国立博物館へ出陳されています。堂内には、持国天・増長天の二天が、コミカルな表情の邪鬼を踏みつけてにらみをきかせています。持国天像の肉身部は赤色に塗られ、頭には花飾りの鉢巻をしています。腹部には獅?(しがみ)が付けられています。増長天像も持国天像と同じように身体は赤色に塗られ、右手には「三鈷杵(さんこしょ)」、左手には「戟(げき)」を持っています。
〇浄瑠璃寺薬師如来坐像(重要文化財)・・・浄瑠璃寺は、その名の通り薬師如来像(重要文化財)を本尊とする小さな庵から始まりましたが、後には阿弥陀堂(国宝)が建立され、阿弥陀如来の浄土をあらわす寺院に変貌していきました。現在では薬師如来像は三重塔に安置されています。
〇浄瑠璃寺吉祥天女像(重要文化財)・・・記録によれば、建暦2年(1212)本堂に安置と記されていて、この頃造立されたと考えられています。彩色が良く残り、優雅でどこかエキゾチックな雰囲気を漂わせています。
美と幸福の女神として知られています。正月と春秋に公開。
〇潅頂堂(かんじょうどう)大日如来像(1月8日~10日特別公開)・・・普段公開されていない江戸時代初期(慶安五年(1652年))に建立された潅頂堂に安置される。近年、平安時代末期の仏師の手によるものとして注目を集めている。

車窓から眺めた奈良公園。なら和み館で昼食休憩。
