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そうだ!山に登ろう

登ってきました!あの山この山!

高天原伝承地周回の一日。

今日は、既に何回も散策している地域だが、安本美典氏と伊藤まさ子氏の著書の「邪馬台国と高天の原伝承」・「大宰府・宝満・沖ノ島」を携えて、もう一度甘木周辺の「古事記」神話の舞台を散策して見ることにした。
大巳貴神社~夜須川~麻氐良山~普門院~高山(香山)~恵蘇神社~斉明天皇陵~山田堰~橘広庭宮址~平塚川添遺跡~卑弥呼ロマンの湯。195日。


ご来光を大巳貴神社前の歴史公園で眺めた。
〇大巳貴神社・・・福岡県筑前町(旧三輪町)弥永にある大己貴神社。我が国で最も古いといわれている神社のひとつです。神功皇后が新羅討伐の兵士を集めるために太刀・矛を奉納し願いを立てた、戦勝を祈願したという言い伝えがある古社。また、邪馬台国-朝倉説の重要な神社といえます。実は「福岡県筑前町弥永の大己貴神社付近」と「奈良県桜井市三輪の大神神社(おおみわじんじゃ)付近」の地名や地形も偶然とは思えないほど酷似しております。
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「古事記」「日本書記」によれば、「高天原」には、「天の安の川」と言う川が流れ、神々はそこで会議を開き、また、天照大御神と須佐之男命とが談判をした。・・・その地を彷彿とさせるかの様に、現在でも朝倉には「安川=夜須川」が流れている。
〇「夜須町」の「夜須」は、「日本書記」の「神功皇后紀」に、「安」と記されている。「万葉集」に「安野」として出て来る「安」も現在の「夜須町」の地をさしている。また、「延喜式」にも筑前の国夜須郡としてみえているから、かなり古くからの地名であることは確かである。
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〇麻氐良山登山・・・麻氐良山(までらやま)は、朝倉地域と杷木(はき)地域の境に位置する、標高約295mの山です。麻氐良山は、日本で最初に「鬼」という文字が使われた山でもあります。日本書記によると、斉明(さいめい)天皇が朝倉の地に移られ、朝倉の社の木を切って御殿を建てられた際、神が怒って御殿を壊したと記されています。また、天皇が崩御された時には、朝倉山の上に鬼が現れて喪の儀式を覗いていたとも書かれています。この朝倉山こそが麻氐良山であり、朝倉の社が山頂に鎮座する「麻氐良布(までらふ)神社」とみられています。このように不思議な伝承が残る麻氏良山は、地元の有力な氏族であった秋月氏の端城や、黒田家の家臣・栗山善助の居城である左右良(までら)城があった要衝でもあり、現在でも曲輪の跡や竪堀の跡が残っています。
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麻氐良山の登山路から眺めた高山(香山)方面の展望。釈迦御前、渡神岳の展望。
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〇麻氐良山山頂・・・山頂の麻氐良布神社(まてらふじんじゃ)は、福岡県朝倉市、標高295メートルの麻底良山山頂にある神社。麓に下宮、中腹に中宮がある。『延喜式』巻9・10神名帳 西海道神 筑前国 上座郡「麻弖良布神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。「マテラフ」という奇妙な社名から、「天照(アマテル)」と関連付け、日神信仰とする説がある。「麻多羅(マタラ)神」と関連付け、星神信仰とする説もある。日本書紀に記載された朝倉の社とされ、雷神信仰とする説もある。謎の神社なのだ。
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麻底良山から下山後に普門院に立ち寄り参拝。
〇普門院・・・本堂は福岡県内最古の木造建築と言われています。普門院はに福岡県朝倉市ある寺院で、747年に僧行基によって建立されたと言われています。朝倉の豊かな自然の中にあり空気がとても澄んでいて、境内を散歩しているだけで心が洗われるような雰囲気を感じます。本堂は県内最古の木造建築とされ、深い歴史を感じます。本殿及び本尊十一面観音立像は国指定重要文化財にもなっています。境内には樹齢300年以上のビャクシンの大木があり、その存在感と迫力で見るものを圧倒します。
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高山(香山)から麻底良山の展望。筑後川、山田堰、斉明天皇陵方面の展望。
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山田堰・・・2019年12月に亡くなった中村哲医師は2010年に山田堰をモデルとした取水堰をアフガニスタンに築造しました。現在では1万6500haの荒野を農地に変え、アフガニスタンの復興支援の灌漑用水モデルとして活用されています。山田堰は、水流に対して石を斜めに敷き詰めた、現存する全国唯一の「傾斜堰床式石張堰」。全国の堰を訪れ山田堰にたどり着いた中村医師は、何度も山田堰を視察し研究を重ね、2010年に7年の歳月をかけて全長25.5kmのマルワリード用水路を完成させました。さらに、2019年にも山田堰を徹底的に模倣した堰を完成させています。中村医師は、世界各地で「山田堰」について発信し、堰の保全や知名度アップに貢献されました。今後も、中村医師の功績とともに、山田堰の技術は世界の人々に希望を与え続けます。また、2021年には、山田堰のすぐそばにある山田堰展望広場に、中村哲医師の肖像画と言葉が刻まれた記念碑が建てられました。
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〇恵蘇八幡宮・・・【ご祭神】応神天皇、斉明天皇、天智天皇。恵蘇八幡宮は、朝倉地域の総社です。斉明7年(661)朝鮮百済救済のため援軍派兵の際、武運長久を祈願し、宇佐神宮より応神天皇の御霊を勧請し建立されました。天武2年(673)天武天皇の勅命により斉明天皇・天智天皇を合わせて祀っています
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〇木の丸殿・・・斉明天皇7年5月9日(661年6月14日)百済救援のため朝倉橘広庭宮に遷られた斉明天皇は、病気と長旅の疲労のため滞在わずか75日後の7月24日(8月27日)に御歳68歳で崩御されました。皇太子の中大兄皇子(後の天智天皇)は、御母である斉明天皇が崩御された7日後の8月1日(9月11日)に御遺骸を朝倉橘広庭宮からこの地にお移しになり、その夕べに朝倉山上(御陵山)に御殯葬されました。そして、陵下の山腹(現在の八幡宮境内)に木皮のついたままの丸木の柱を立て忌み殿を建てました。板を敷き、芦の簾を掛け、苫をふき、あばらなる屋に、塊を枕にし、1日を1ヶ月にかえて12日間、母君の喪に服されたと伝えられています。そのことからこの地を「木の丸殿」「黒木の御所」と呼ぶようになりました。現在、陵上には石柵が巡らされ、中央の塔石には「斉明帝藁葬地」と刻されています。喪に服された皇太子は、「朝倉や 木の丸殿に我居れば 名乗りをしつつ 行くは誰が子ぞ」『新古今和歌集』と詠まれました。
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〇朝闇神社・・・朝倉橘広庭宮跡の下に在り、高皇産霊尊を祀っています。朝倉橘広庭宮が造営された際に、建立されたと言われています。この地に朝日が射すのが遅く、朝がいつまでも暗かった為この名があります。「朝倉」の地名は、この神社に因んだものではないかと考えられています。
〇高皇産霊尊【たかみむすひのみこと】・・・天地開闢(かいびゃく)の時,天御中主(あめのみなかぬし)神,神皇産霊(かんみむすひ)尊とともに高天原に現れた神。 むすは植物の産生を意味する。 天孫降臨の号令を出し,天照大神とともに高天原における最高意志を示す神として語られている
〇朝倉橘広庭宮・・・「朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)」は、飛鳥時代の天皇である斉明(さいめい)天皇が営まれた宮殿です。大和朝廷と親交の深かった百済は、660年新羅・唐の連合軍に亡ぼされました。そこで百済救援軍を派遣するため、661年に斉明天皇が都を遷され、朝倉橘広庭宮をつくられたといわれています。正式にはその所在は分かっていませんが、朝倉地域の地元の伝承では「天子(てんし)の森」付近だといわれています。朝倉橘広庭宮を建造するにあたっては、朝倉社の木を切って用いたことに神が怒り、宮殿を壊したり、宮中に鬼火が出現して病死者が続出したといわれています。斉明天皇自身も朝倉橘広庭宮に都が置かれてわずか2ヵ月後に崩御されたこともあり、不思議な伝承に彩られた古代スポットとなっています。
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平塚川添遺跡公園・・・ラストの訪問地だったが、広過ぎてちょこっと歩いただけ。次回は「タカナベカイドウ」の咲く時期に再訪しよう。
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「卑弥呼ロマンの湯」で休息して帰宅した。サウナが無いのは不満だが、湯質も好みでゆったりと休息出来る。この辺を散策する時には毎回利用することにしよう。
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by kabuto1952 | 2022-12-27 21:15 | 歴史散策 | Trackback
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