12日は晴天の予報となったので、前日に計画していた青海島に向かい、遊覧船での観光をすることにした。御来光は、萩市内近くの海岸で眺めようかとも考えていたが、青海島の海岸で眺めることにして早朝に東萩のビジネスホテルを出発した。青海島は晴天で物凄く綺麗な海だったが、北風が吹き付け波が高かった為に、遊覧船観光は半分の赤瀬コースしか出来なかった。御来光も青海島の先端部まで走ったが、なかなか適当な場所が発見出来ずに、海から昇る綺麗な御来光は鑑賞することが出来なかった。青海島観光を終了後はもう一度萩へと戻り、「山口県の山」に記載されている田床山に登り、市内を散策後に、当日宿泊予定の新山口駅近くのビジネスホテルへと向かった。
青海島でのご来光を眺める位置がなかな確定出来ずにウロウロして、結局自然研究路を往復して海岸線の断崖の展望を眺めることにした。8時40分が遊覧船の第一便のスタートなので、あまりゆっくりとは海岸線の素晴らしい展望を眺めることは出来なかった。
〇波の橋立・・・
金子みすゞが「仙崎八景」のひとつとしてうたった「波の橋立」。日本海の潮流の作用により礫(つぶて)と砂が直線状に堆積(たいせき)したもので、長さは1300mありクロマツの林は、防風や防潮の役目も果たしています。青海湖は、淡水湖で農業用水に利用されていますが、冬季には多くのカモ類の渡来地でもあり鯉や鮒も多く釣りをされる方にも人気があります

波の橋立を少しだけ歩いた。橋立から先程登った高山の展望と仙崎湾の展望。仙崎港で昼食休憩後に萩に戻り田床山に登ることにした。

田床山は吉田松陰の墓地を経由して登って行く。
〇吉田松陰墓地・・・吉田松陰の墓は、松陰誕生地に隣接し、団子岩とよばれる小高い風光明媚な場所に建っています。松陰の没後100ヵ日にあたる万延元年(1860)2月7日、生家の杉家では百ヵ忌を営み、護国山団子岩の吉田家墓地に家族や親戚、高杉晋作、久坂玄瑞をはじめ在萩の門人のほとんどが出席し、故人の霊を弔い遺髪を埋葬しました。そして同月15日に松陰の墓碑を建立しました。表に「松陰二十一回猛士墓」、裏に「姓吉田氏、称寅次郎、安政六年己未十月二十七日於江戸歿、享年三十歳」と刻まれています。墓前の水盤や花立は、前原一誠や久坂玄瑞、高杉晋作、入江九一ら門人17人と妹たちが名前入りで寄進したものです。当時、松陰は幕府から第一級の大罪人とされており、その松陰へ対し名前を刻んでの寄進は当時としては勇気のいる行動でした。それだけ松陰が門人たちから慕われていたということが伺えます。この墓所には、杉百合之助、吉田大助、玉木文之進、久坂玄瑞など一族の墓のほか、門人の高杉晋作などの墓もあります。

「山口県の山」に掲載されている未踏の山なので登ったが、登山道は荒れていた。おまけに山頂まで登って分かったことだが、車道が山頂まで延びていた(笑)。「車で登れる山は、限りなく車で登る」のが信条の自分にとっては、荒れた登山道と共に大きな落胆要因だった。

田床山山頂からの展望。

田床山から下山後に松陰神社に参拝。その後に萩市内を周回して当日の宿泊先の山口市のホテルに向かった。
〇松陰神社・・・明治40年(1907)に創建された、吉田松陰を祭神とする神社。明治23年(1890)8月、松下村塾出身者などにより松下村塾の改修が行われ、松陰の実家である杉家により私祠として村塾の西側に土蔵造りの小祠が建立されました。その後、門人の伊藤博文、野村靖などが中心となり、神社を公のものとして創設しようという運動が起こり、明治40年(1907)に県社の社格をもって創建が許可されました。現在の社殿は昭和30年(1955)に完成したもの。御神体として松陰が終生愛用した赤間硯と父叔兄宛に書いた文書が遺言によって納められています。旧社殿は「松門神社」として、松陰の門人であった人々の霊を祀っています。学問の神として信仰が厚く、境内には松陰ゆかりの史跡などが点在。近代日本の原動力となった数多くの逸材を輩出した松下村塾と、隣接して吉田松陰幽囚ノ旧宅があります。

〇吉田松陰旧宅と松下村塾・・・1854年(安政元)松陰は25歳のときに伊豆下田でアメリカ艦船に乗り込み、海外渡航を試みましたが未遂に終わり投獄され、のちに許されて在宅(国史跡 吉田松陰幽囚の旧宅)に謹慎となりました。この邸内3畳半の1室に幽囚された松陰は、家族のすすめも有り幽囚室で孟子などを講するようになり多くの若者が参加するようになり、やがて松下村塾の教育に発展して行きました。
